teresuwatebesu's blog

ときどき宇宙のことを考えるといいらしい

わたしは、ダニエル・ブレイク

いつもの目薬をもらおうと私は行きつけの眼科に向かうため朝も早くから準備をして、そのためだけに外出をした。にもかかわらず、眼科は医師会とやらで休み。なんのためにバス賃まで支払って出てきたと思っているのだ。と溢しても閉まっているものは閉まっている。

 

仕方なく賑やかな街の方へとふらふら徘徊をはじめた。時刻はまだ朝の11時。カフェに入って本を読もうかと思ったが今はそんな気分ではないな、と思い直し、なにかいい映画はやってないかなとググりんぐ。するとどうだい、あの「ビューティフル」と同じ賞(パルムドールバロンドール?)をもらったという映画があと20分後に上映されるではないか!これは、運命の出会いかもしれない。と私は期待と興奮に満ち、履きなれない革靴の靴底を軽快にうち鳴らし、歩を進めた。ちょうどここから行けば、歩いて15分ほどの距離にあるし、5分あれば、映画のイントロダクションを追うこともできる。これは運命だと半ば確信していた。

というのは、後から盛り付けた話で、しかしまあとりあえず、外れるということはないだろうというのは信じて疑わなかった。

 

そもそも自分という人間は、ダーツのような人間なのである。家を出る前、前日からどういう経路で外出するのかを計画し、実行にうつす。ふらっとでて、どこかに寄る。という実に高等なお出掛け方法は、私の脳にはインストールされていないのである。であるからして、今回のようなある予定が潰れたゆえに、穴埋めとして映画を見る、なぞという高等技術は、私からしては考えられなかったような芸当なのである。

私も成長したなあ。

 

で、

 

肝心の映画なのであるが。

 

あらすじはこうだ。大工ひとすじで妻に先立たれた老齢の頑固ジジイ、ダニエルブレイクは、心臓の病気により、医者から仕事を控えるよう告げられる。仕事をしないとなると収入がなくなる。ダニエルは国から失業手当てをもらうため、申請に赴くのだが…。というまあよくある話。そしてそこで同じように手当てをもらうための申請にきていた二人の子をもつ母親ケイティ。その母親もダニエル同様、役所の塩対応の憂き目にあっていた。それを見かねたダニエルはしびれを切らし、母親に加勢するかたちで役所の人間に口吻を飛ばし、彼らはその場から追い出される。

 

そんなわけで、知らないシングルマザーの隣人ができ、収入もないくせに家の補修や光熱費の支払いをこっそり渡すなどの世話をやくダニエルジジイの温厚な一面が見られます。

 

なんというか。おれもね、ここ一年くらいかな。映画館で泣きたい気持ちってのが、だんだんわかるようになってきたというか。泣くっていうのは一種の麻薬作用があるというか。感情を日頃ため込むだけため込んでいるので、こうして公共の場で人目をはばからずに泣くことができる場所ってのは、すごくいいなと。家で泣くのはほんとうにメンタルが崩壊してるときだけだし、家泣きはブレーキがきかないし、たいていが深夜なので、浄化作用というよりは、いったんドス黒く染まれるだけ染まってしまって茫然自失になったとこで呆けた状態を経てだんだん元に戻るというプロセスをたどるため、家泣きはほんとうによくない。

そのてん、公然と泣ける映画館ならば人目もあるし、なにより作られた暗闇だし、そして自分の問題ではなく、作られた物語によって泣いているので、落ち込むということはない。

かといって自分の琴線に触れてくる映画なんてなかなか出会うこともない。よほど自分とリンクするなにかがないと、泣きたくても泣けないのである。

泣きラインを下げたこともあるが、その涙は涙を流すという行為に傾注するため、映画で泣いたのか悲しいことをひねり出して泣いたのかわからないし、頑張って泣くもんだから変な疲労感がしこりのように残るため、気持ちよくなれない。

 

まあそういうわけで、映画館で泣くのもいいなあという味を知っている私が、この映画なら泣けるスイッチをONにしてもバチは当たるまい。と意気込んでいたのだ。

 

 

が、合わなさすぎた。

 

 

物語が終わりに近づくにつれ、劇場で鼻をすする音もしばしば聞かれた。まあこの映画館は年齢層が高めであるから、なにか感じるものがあるのもまた事実なのかもしれない。だがまあ若造である僕は「はやくおわんねーかなあ(はなほじ)」という感想を抱いていた。

 

私は映画や音楽や小説を見聞きするときに基準にしているものがあって(いまおもうと)、自分のなけなしの知識を照らし合わせ、想像できる範囲内で現実味があるかどうかという基準で見ている。

それは人物の描写、挙動、音のひねくれかた、隠している感情、見えないこだわり、過剰すぎる演出、思想の押し付け、等々。

フラットであるかどうか、というのがおれの人生の決まり事なのである。知らんけど。

 

 泣いておられる方もおられたので、こんなことをいうのはタイヘン失礼であるし、世界中が感動し、さらには名のある映画祭の賞まで獲得している作品に対してこんなことをいうなんてのは神経が狂っているのだといわれても全力で否定できるほど人間味がない人間であるからして、それでも僕にも人権が許されているはずなので、僕個人としての考え方として、発言だけは認めてくださるのなら、僕はダニエルブレイクにも劇場で思わず中指を立てそうになった。何度も

 

でもね、ひとつ待ってほしいのが、現実っていがいとこうなのかもしれない。ということ。おそらく大半の人間はこうだろうというか。世の中に暮らすひとたちの目線って、ここ止まりというか。いや、べつに僕が優れているとかいうわけでは全然なくて、っていう否定をするのもなんかずるいなあという気持ちでして。

 

近年よく思うのは、社会が、世の中が、構図化しているなあということなんです。

わかりやすいたとえでいえば、政治ですよね。右、左、原発ないと電力が~派と反原発派。みたいな。

 

死ぬまで一匹狼であるだろう僕は群れるものが信用ならんのです。

もちろん妬みもありますが、群れると疎かになったり低質になったりするという紛れもない事実があります。

 

だから反体制を全面に押し出してくる、庶民側に立っていることをことさら強調してくるものは眉唾なのです。そこに予定調和があるとわかると、すぐに冷める。

 

窓口の担当者も不親切にもほどがあるし、むしろ現実は表面的には笑顔を取り繕いながら見えないところで残酷な仕打ちを働くのが、国家であり、政治家であり官僚であり人間であって、あれほど露骨な悪役はいまどきいないだろう。

 

体制にたてつく、役所が悪い、政治がひどい、こういうことを声高に訴える庶民は、攻殻草薙素子の言葉を借りるなら、「あわれなほど現実を知らないプロレタリア」なのだ。

結局これまでに多くの人間がその道をとおり、憂き目にあい、当事者になってはじめて気付く。

生まれたときから国家というのは自分の味方ではないし、当然家族でも隣人でもない。

そんな単純な事実を知らず、税金を払っていれば面倒をみてくれるだろうという甘い考えや、何かを信用するということの重要性を、人生のなかで省みてこなかったお前はどうなのだ、ということを問いたいわけです。同じあわれなプロレタリアとしてね。

 

だからことごとく腹が立ちましたよ。ダニエル。残酷だという声が聞こえてくる。そんな自問や自責はとうにしてる。つーか現在進行形だよ。

それでも同じ立場だからこそ、もっと関心を持ってほしかった。国家ってのがなんなのか。人間とは、宇宙とは。ってね

 

邦画はこういう愚痴になる映画がほとんどなので、はなから見ないんだけど。外国の映画でもこういうの意外に多いな、ということに今回思い至った。

 

ということは、世の中、世間、というのは世界と同義なのかもしれない。

チープな感動で満足するのは日本人特有のものなのかと思っていたけど、どうやら国境は関係ないようだ。

 

国家は見捨てるけど、隣人は見捨てない。みたいなのがこの映画のコンセプトみたいだけど、(少なくとも日本向けの広告はそう)

隣人が果たして助けてくれるでしょうか?

てか、この期に及んでまだだれかを信用するつもり?

その価値観で生きてるようじゃ、裏切りは一生つきまといますよ。

まさかと思うかもしれないけど、裏切りに合わないためには信用しないことが鉄則だと思います。

そりゃあもちろん愛しあっている恋人や家族はこれの範疇ではありませんよ?

それ以外の隣人のことをいっておるのです。

この答えは映画「ミスティックリバー」を見ていただければわかります。

むしろ隣人は無視するに限るのです。それがたとえ、だれかから残酷だといわれようと。家族さえ、愛する人さえ守れるのなら、それがこの世界で何かを信じ、愛し抜く唯一の方法なのです。

 

つーわけで、ハズレ映画にあたってしまったのでした。ここまでこき下ろしてしまった理由は、お話したとおり、ああいったいきさつがあったために、期待値が高すぎたことが起因となっていることも付け加えておく。

 

まあ、演技はみんなさすが、って感じでしたよ。欧米人はさまになるもんなあ。