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teresuwatebesu's blog

ときどき宇宙のことを考えるといいらしい

ミスティックリバー

映画感想 独自考察備忘録

今日はすごい映画を見た。

 

ミスティックリバーってやつ。

 

視聴する前にアマゾンレビューをちらと見たときに、たしか「筋は読めてしまうが~」と書かれていたような気がしたけど、おれは全然読めなかった。読めなかったというか、読んでたけど違った。

 

 

しかもこの映画の面白いところは、見る人によってまったく感想が異なっていること。

着眼点も人によってまちまちであること。

 

たしかに何かを描ききってるはずの作品なのに、受け手は混乱させられる。

 

 

おれがこの映画を見て感じたことを素直に書いてみる。

 

まず最初は、子供時代における3人組。

生意気なジミー、抜け目ないショーン、三人の中では臆病者のデイヴの三人は仲良く住宅付近の道路でホッケーをして遊んでた。

 

するとデイヴは下水の穴の中にホッケーの玉を落としてしまう。

 

目立って描かれてるわけじゃないんだけど、おれとしては、デイヴを見るときのほかの二人の視線に、少し冷たいものを感じてた。

まあ、これって女の子は知らんけど、男のガキの頃は珍しくもないことで

友達ではあるんだけど、人より少し、どんくさい友達を見るときの、軽蔑を含んだ眼差し、言動。

 

軽蔑と呼ぶにはあまりにも小さく、ほとんどの人間が省みることのない感情の起伏、のようなものを…

 

うーん、いま考え直してみてもそこははっきりとしたことは言えない。やっぱ。

べつにそこまで悪意を持って描かれてるわけでもなかった気がするし。

 

とりあえず話を進めて…。

 

ジミーは退屈しのぎにちょっとした悪さを思いつく。

 

おれもやったから、おまえも、という暗黙のルールのもとに。

整備したてのコンクリートにそれぞれが名前を書いていく。

 

そして3人目のデイヴが書いている途中で、車から降りてきた、ある大人に注意される。

 

あのそれぞれの受け答えの描かれ方が秀逸だった。

 

こんなことしていいと思ってるのか?という問いかけに

1人ずつ答えていく。

 

デイヴ「いいえ」

ショーン「いいえ」

ジミー「いや、…いいえ」

 

デイヴとショーンのいいえの違い。

同じいいえでもその中身が違うと思った。

ショーンはとりあえずこの面倒を終わらせるための無難な答えを選んだ、といった感じで。一方のデイヴはさまざまなことが頭を過ったのだろう、そのいいえにはこれ以上ことを荒立てたくない、恐怖心、悪いことがバレたという焦り、

 

ジミーは例外中の例外(笑)

 

そしておれは後ほど思う。

 

というか、そんな生き方ができてる時点で、もう幸せだったろ、というか。

俺という人格の中からは、残酷な感想が浮かんでくるだけだった。

 

ジミーへ同情する気持ちは、かけらも浮かばなかった。最終的には。だけど

 

途中まで騙されてたときは普通に同情し、デイヴを殺せと思った

 

デイヴがあんな悲惨な目に合ったことも、

 

ことすらも忘れて、

 

いや、覚えていたけどそれを差し引きしても、殺せと思った。

 

だけどそれがこの映画のミソで

 

きっとこの殺せという感情を

 

人間は見てみぬフリをして

またはそれを実行しても、騙し騙し

近しいものたちの幸せだけを、誰かの血が流れた結果生まれた副産物だとしても、それを騙し騙し享受して生きているんだなあと

 

もっとまとまった文章を書くつもりだったんだけどな

 

やめた

 

寝る

 

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というのが1/23付けで書き留めておいた感想。

 

いま読み返すと我ながら暴論のようだなあ、、と不安になる。

考える余白を残してる映画の感想についてはあまり言及しないほうが身のためかもしれない。笑

自分の劣等感が変なところで顔を出したせいで、子供時代の出来事が脚色されていたことが二度目の視聴で判明した。

ただそれは確率や偶然のもたらした産物であって、子供なら、いや、大人も含めた人間ならだれもがそうするように、隣人は隣人でしかなく、他人のために血を流すことはないのである。

 

そして、見方が変わったのは、ジョージとデイブに対してだった。

ジョージは終始孤独と戦っていた。誤解の連続。妻にさえ疑われているのだということに思いあたった彼は、妻の前で自嘲するように笑いだしてしまう。その行為と発言の解離が、彼の心の傷の深さを知らない人間にとっては、ただの猟奇的殺人者のそれと重なってしまう。

なにかの本で読んだが、人は真の絶望に直面すると微笑を浮かべるものらしい。それは自分にもなんとなくわかる。自分があまりにも惨めで、滑稽で神ってなんだ?と問いただしたくなるような心境。

 

彼が映る場面は、つねに気の毒な気持ちでいっぱいになった。

 

 

そしてジョージ。

おれはやはりこういった人間が嫌いなんだな、とおもった。

と、いうより嫉妬したんだな。

 

無償の愛に。

 

パパは王様なの

王様はそれがどんなに難しくても、必ずする

愛する者のためなら何でもする

それが大切なのよ

 

だってみんな弱いけど 私たちは違う

私たちは弱くない

 

あなたは

この町の支配者なの

 

最後のシーンで妻がしゃべった台詞。

 

ああ、これなんだよ、世界は、と。

この残酷さの集合体が世間なんだよ、と。

 

一回目の視聴はそこまでの感想だった。

でもいまは違う。

 

それを欲しいとおもった。喉から手がでるほど。

その他人に対しては圧倒的に無慈悲で、残酷で、世の中の大半から見れば、悪いことだったり、奇妙な言動だったり、嫌悪感を抱かれたりすることがらさえ、ただあなたとわたしという個人的なつながりだけで、すべてを信じ、ゆるしてくれるその真実の愛が。

 

臆面もなく愛について語る音楽や映画やドラマやメディアは問題外だが

それを見るにつけ、愛ってなんだろう、と巷ではよくいわれるけど、

 

愛ってこれだな、と思った。

血のつながり。それも一親等に限られる血のつながり。

道義的な正しさなどではかるのではなく、愛する者を守るために命を賭して、隣人に嘘もつくし、嫌われ役も買ってでるし、間違いを犯してもあなたは間違っていないと諭す。

 

真実っていうのは、あらゆることにおいて、世の中に流布されている事実よりも残酷だったりすることが多いけど。まさにこのケースはそれと同じだな。

 

まさかこの映画で愛がなんたるか、を学ぶとは思わなかった。

これは自分の基軸になりそう。

やっぱ映画って一回見ただけじゃだめだ。おれが頭の回転遅いのもあるけど、一回じゃ把握するだけで精一杯だったり、余計な感情が入り込んでくる。

 

だからこういう系の映画は劇場で見るのはどうなんだろ。映画代考えても二度見るというのはちょっと…。

スクリーンである意味もそんなになさそうだしね…。