teresuwatebesu's blog

ときどき宇宙のことを考えるといいらしい

まどマギ再見からの脱線事故

まどマギを通してみたのはたしかこれで三回目?かな。(前後編のやついれると四回目)

 

クライマックスに向けての怒涛の展開を知っているからなのか、自分が少し大人になったのか、あるいは暁美ほむらに萌えーーなのかはわからないけど、最初見たときには目についていた前半のほうの各キャラクターに対するツッコミとか、演出っぽさとかが気にならなくなってた。というかむしろ、そういうシーンにこそ、ありきたりな台詞のように聞こえながら、もっと深い意味での発言だったのかと気づかされるシーンもあって、あのときは心と視野が狭い時期だったのだなあと思ったりした。たしかにいまでも「おや?」という部分もあるにはあるけど、でもそれも最後の展開で納得できちゃうというか。それにまだ頭の柔軟性が足りない可能性も。

 

いやー、それにしても、ラスト三話くらいからの展開はそれまでとは一線を画すね。

事情がわかってからのほむらちゃんは、姿が霞んで毎度見えなくなる。涙である。

 

概念になるということは、いつでもそこにいるということ。それでもやはり、肉体を求めてしまうものだろうか。それがたとえ同性であっても。

それとも理屈じゃない、というやつだろうか。

 

でもなんだろう。現状のおれとしては、概念に見守られるってことほど幸せなことはないと思える。

これはまあ、親友はおろか、友達が言葉通り居なくて、年末最後のラインは職場の人間とのやりとりで、年始のラインのやりとりも同一人物という本当に骨の髄まで孤独なおれだからそう思うのかもしれないけど、という但し書きをしたうえで書くけど、

生身の人間に思われるより、概念に思われてるほうが、心強いし、自分が強い人間でいられるような気がする。そもそも生身の人間が思うことと概念が思うことでは、その密度も質も時間も圧倒的に違うし、人間が誰かを思い浮かべ、その人のことを思う瞬間なんて、実際ごくごく僅かな瞬間でしかない。そして百年と持たず死ぬしね。

それに引き換え概念なら、つねにそこにいるし、しかもまどかの場合は記憶もセーブされてる。そんな存在になったことで、いつも一緒にいられるわけだからほむらちゃんが悲しむ必要はもうなくなったと思うし、というのは女子中学生にとっては酷な話か。

 

 

 

 

諦めてるし、絶望してるし、失望したし、もうどうなっても知らない。けっきょく人類は学ばないらしいし、そういう生き物が寄り集まってできた宇宙からみたら下等生物なんだろうな、という感想をもって、悪化するしかない世の中にはもう見切りをつけたし、それは自棄半分、どうでもいい気持ち四分の一、なんかへんなドーパミン四分の一、みたいな感情の自分でさえ、きっとそのときになったら少しは後悔しだすと思うのね。

だからなんというか、そこは残念だったなーというか。

ああ、そのケースね。まあ、そういう場合って、ふつうに存在してたんだけどね、それを無視する、気づかずにいた、っていう日々が、もうすでに対価として支払ってたわけで、

 

もとからそういう世界だったんだよ、というだけの話。

 

まあ、深くその代償について考えすぎればこういうふうにあらゆる人間の生活を棒に振ることになり、人生を(資本主義経済社会の人生を)謳歌して生きるということは不可能になるうえ、けっきょくこんなことを考えたところで、なんのやくにも誰の役にも立たないどころか、自分のためにもならず、ひいては精神的、肉体的な疲労多く、それを差し引きしても、圧倒的に無知であるほうが幸せなのである。

 

誰も清算なんてしないしねー。ん?神様??なんで死んでまで人間の尺度で裁かれなきゃいけないの?悪いことをした人間は裁かれる?僻み恨み辛み嫉みから生まれた感情を神の名を冠して消化しようなんて、人間の考えそうなことじゃないか。宇宙の理は、人間のものさしではかられているんですか??

 

 

 

 

 

 

 

今日も鼻毛はのびる。