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teresuwatebesu's blog

ときどき宇宙のことを考えるといいらしい

褥瘡

「またなの?……はあ。これで何回目よ?」
私は思わずそう口にしていた。
「あたし、行きます!柏木さんは休んでて下さい!」
「あらそ?じゃ、お願いね。」
4連勤の合間で久々にとれた休憩中の私に代わって、もうすぐ勤続9ヶ月になる、まだまだ新人の佳菜子ちゃんがナースコールを止め、パタパタとかけていった。
「やっぱり、外しとく?」
私より二個下の野中晴美。
「西田さん、もう二週間経つわよね…。」
年齢?レディーにそんなこと、気安く尋ねるもんじゃないわ。
晴美とは気のおけない友達でもある。
「寂しがり屋なのよきっと。」
寂しがり屋。もう何百回、何千回と唱えてきた呪文の言葉。苛立ちを鎮めるために必死だったあの頃。
今回の西田さんに限らず、患者がああなるのはよくわかる。いままで比較的健康体だったご老人が、急に怪我をして入院となると、気が動転してしまって、興奮状態が続くことがある。
「ご家族は見えてるじゃない。誰もお見舞いにこない患者に比べたらずっとマシよ。」
これは事実だ。西田さんのご家族は、もう何度もここを訪れており、奥さんにいたっては、少なくとも私が出勤した日には必ずお見えになっていた。
「あの涙を見ても動じないとは……私も長いけど、あの目には、なんかウルッときちゃった。」
うう。なにも言い返せない。
「なによそれ、皮肉?」
だけど、「慣れた」なんて絶対に言わない。事実としては、限りなくそういう感覚に近いのだけれど、それを口にしてしまったら、私は私が人間という生き物でいられなくなる気がする。それはきっと、晴美も同じ気持ちだとおもう。
「半分ね。」
この気を遣わなくていいやり取りが、晴美とシフトが被ったときの救いだ。
「あー佳菜子ちゃんもいずれこうなってしまうのかぁ~~」
「なってもらわなくちゃ、私たちが困るでしょ。」
苦笑いの晴美もなかなか辛辣なことをいう。
私は真顔でつぶやくように言った。
「そらそうだ。」


ーー意識はこんなにハッキリしているのに、おいはそんなに眠そうな目をしているのか?
ああ、そういえば、足が、思うように動かんな。くそっ、くそっ。なんでだっ。右足がなんとか動くが、これはほんとうに、おいの足か?さっきの若い娘が救急車で運ばれてきたと云っていたが……。おいは、おいは…………転けたのか。そうだ、思い出した、転けたのだ。自転車の若僧とぶつかって…。転けたのだ…。

今日はたしかに朝からついていなかった。いつもは目覚まし通りに起きるのに、今日に限って、珍しく鳴る前に目が覚めた。朝刊が届いておらず、文句を云うために電話をした。そういえば、お詫びに金のかかっていないタオルを添えてもってきたっけ。それからいつも通りの時間に朝食を済ませたが、そのあとがいけなかった。妻とくだらぬことで口論となり、むしゃくしゃして家を飛び出し、いつも通る散歩コースを歩くのは何か癪だったので、普段は通らない、あまり土地勘のない道を歩いたのだった。最近思うように足が上がらなくなってきたこともあって、ちと歩く距離を伸ばそうか、とも考えていた矢先だったので、いつもの散歩コースから外れたのだ。それがまさか、こんなことになろうとはー。…妻は。昭代はもう、知っているだろうか、おいがこんなになってしまったことをー。

思い出すだけで腹が立つ。おいがもう少し若ければ、あんな若僧などはね飛ばして一喝してやったのに!………いや、若くなくとも、この身体で、少なくとも、受け止めるか、いなすくらいのことはできたはずだった。思った以上においは歳をとっていたということなのか。

これは入院、になるのか。
いままで健康体で生きてきたものだから、入院なぞ、定期検診以外でしたことがない。まして病院なんてものには、近づきたくもなかった。いずれ、世話になるだろうとは思っていたが、これでは状況が違いすぎる。


とっくに過ぎた消灯の時間から一体何時間経ったのか、真っ暗い病棟の無機質な蛍光灯の明るさが却って息苦しい。
こんなことになるとは……老後もクソもあったものじゃない………。転けて、このザマか?
転けて…人生………終い…?ああ、はやく、とりあえず歩きたい。



そう考えると、言いたいこと、やりたいことを死ぬ間際になって後悔しないようにやっておけ、というのはいろんなところでさんざん言われていることだが、あれは理にかなっているようだ。

「想像を絶する」とはよく言ったものだ、こんな恐怖体験を人生の最後の最後に味わわなくてはいけないとは、こんなことを一体誰が知っているというのか。なんだ、この泪は、鼻水は、垂れるがままじゃないか……。みっともない。みっともないとわかっていながら、いまはそれ以上にみっともなく泣き叫びたい。それが、叶わん。叶わんぞ、なんでだ、なんでだ、なんでおいがこんな目に?どうして声が出らんのだ、いやだ。せめて、せめてこの気持ちを誰かに話したい。いまこの歳になって初めて、体感した、恐怖を、誰かに伝えたい。こわい。一人にしないでくれ。


ーーー敏夫は6度目のナースコールを押した。