teresuwatebesu's blog

ときどき宇宙のことを考えるといいらしい

メッセージ

メッセージという映画を見た

 

劇場でこういう映画を見たのは意外にも初めてだった

 

こういう映画は好きだから

わりかしチェックしてはいるつもりなんだけど、

 

深遠なSF映画というか

SFと少しのオカルトと現実の世界の融合というか

 

まあたしかに映画慣れしてないと、あるいは宇宙について思いめぐらせたりしたことがない人が見ると、よくわからん映画に分類されそうなマニア向けの映画だった笑

 

隣のおじさんいびきかいて寝てたし…

 

 

予想と違って公開初日の客の入りはよく、カップルも半分くらいはいたのには驚いた

 

おれとしてはインターステラー系の映画だと期待していたので、カップルで見るには退屈じゃないか?と

 

たぶん宣伝効果だろな、「ばかうけ」とか

日本向け宣伝動画とか(中国の……ね)

 

監督がボケたのは多大なるリップサービスであったことは映画の内容を見れば一瞬でわかる

 

笑いの余地はいっさいない

 

 

映画館全体が「キョトン」とした雰囲気に包まれていたのは傑作だった

 

そして誰ひとり結末に泣かないというのも、ね

 

無慈悲な生物によって、人類のために己の人生と運命を強制的に犠牲にされ、歓びも哀しみも既知のものとして生きていかねばならないという想像を絶する苦悩は

 

余命いくばくかの彼女を、全力で支えるイケメン彼氏の映画よりずっと深刻なんだけどな

 

 

監督はほくそ笑んでいることでしょう

そんなアイロニカルな面も含めてとても好きな映画になった

 

拾えなかった部分もあるし雪ダルマ式映画だし

こういう映画を劇場で見れることってそうそうない気がするので

また来週見に行く

 

わたしがカメラの前で素っ気ない態度をとり、

馬鹿にされたと感じるなら、あなたは低俗な世間の一部よ

 

ーグレタ・ガールー

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彼ら、彼女らの口から語られる手段や理由がいかに稚拙であろうと、

その奥底にある漠然とした淋しさや不安は

誰しもが抱えており、誰しもがいつか目の当たりにする闇である

 

ただ感動の涙を流したいという女の子と

心を震わせてくれる映画に出会うことを期待しているこのおれと

なんの違いがあろうか

 

 

 

ツイッターエマ・ワトソンの刺激的な言葉を知ったおれは

彼女の演技を見たいとおもい、美女と野獣を見ることになった。

 

いやー、うつくしい。

なんだろう。素朴なうつくしさだ。

 

前評判のいい映画やトレンドの映画は、どうしても苦手。というのも、観客の空気に流されてしまうからだ。

作品そのものをじっくり自分のペースで咀嚼し鑑賞するよりも先に、観客の熱に呑まれてしまうというか。

まあ理由はいろいろある。

 

美女と野獣もきっとそんな感じだろうと思っていたので、あえて平日の、しかもさびれた映画館に目星をつけ、足を運んだ。

 

入場が遅れてしまい、うしろのほうの隅っこに席をとった

 

ここの映画館は予告中であっても、照明の類は切られており、画面の明かりしか頼りにできないため、奥へ進むのは危険なので断念せざるをえない。

 

館内はそれほど人はいないようだった。

 

座った瞬間、物語ははじまった。

 

心理的にどんな作用がはたらいているのか、わからないけれど

 

おれはどこまでもやさしい気持ちになっている

 

単純に久々に休みを満喫できたからだろうか

 

映画館を出たその足取りはかるく

遠くの景色をたのしみながら帰宅した

 

その理由を少し考えてみる。

 

もしかしたら、もしかしたらだけど。美女と野獣という、あまりにもエンターテイナで、商業的で、大衆的で予定調和的なものにたいして、心を波立たせることなく、素直に受け入れられた自分の成長ぶりが、うれしかったのかもしれない。

 

もちろん、物語のあらを探そうと思えばいくらでもある。

肝心なところでいえば、ベルがなぜ野獣を愛したのかやっぱりわからないもの。

だけど、そんな自分のなかの声は遠く、気にはならなかった。

 

みんな、なにかしら抱えて生きてんだな、としみじみおもったよ

なんでかしらんけど

 

3つ隣の席に座っていたお姉さんが、物語中盤以降泣いていたのかな、と思われる鼻水をすする音がかすかに聞こえていた。(ただの花粉症かもしれない)

 

幼いころに見たアニメの記憶が蘇って、いろいろ思い出して、さみしくなったんかな、とか、懐かしかったんかな、とか勝手に想像した

 

あまり熱心に見たことも、音楽を聴いたこともなかったおれでさえ、

劇中歌のあの音楽は、たしかに胸にせまるものがあった。(というか、あの曲が美女~の曲だったとは。中学の給食時間の校内放送であのオルゴールがよくかかっていたものだった。)

 

どんな理由であれ、泣くという行為には本人さえ気づいていない痛切さが含まれているような気がしてる

心の叫びというか

仮にそれが絞り出した涙だとしてもね。

だから泣いてるひとにはやさしくしたいなとおもっている。

まあ、そわそわするだけなんだけど

 

映像も美しかったし、CGもすごかったし、ミュージカルも素敵だった。満足。

 

欲をいえば、エマのお顔を、もっと真正面からじっくりと拝見したかったけど。

もうこれは絵画をみるときのような心境に近い。(絵画しらんけども。でも、芸術作品を見るときのような心境)

 

この映画を見た後の感覚って、なんか身に覚えがあるとおもったけど、ゼロ・グラビティだ。

あのときの神聖な、穏やかな気持ちに似てる。

 

こんな気持ちが長く続くことはないってわかってるけど

こんな1日を体験するために、また生きのばしてみるかという気持ちになれる。

 

また今週末はメッセージっていうおもしろそうな映画の公開がはじまるから金曜日が楽しみ。そこに向けてのこり3日間がんばろう。

それほど(というか、まったく)賢くはない人間なのに、太宰治がよく指摘していたような人間の狡猾さや、世の中の仕組みや悪事といったものが、嫌というほど目につき、自分のなかでそれを暴きたてる才能だけはあるのです。なぜか。

そしてそれは、半ば当たっています。

 

べつに自慢したいわけじゃないのはおわかりでしょう?

どこに、25にもなって厭世的な自分を他人にひけらかして悦に入る人間がいますか?

そもそも25で冴えない暮らしを送っている時点で、もう私が選ばれた人間でないことは誰に説明する必要もないことでしょう。

 

よしてください。あなたの拗れた自我に付き合わされるのはごめんです。もういいですか。

 

 

世の中を正しく捉えようとするなら、たぶんそれは歪んだ状態が正常なのです。

俗物であるあなたが否定しようとも、これは紛れもない事実なのですから。

贔屓にしているものはなんですか?

この質問だけで、たいていのことは分かります。分かりますとも。

…なるほど、あなたはやはり、なにも知らない迷える子羊のようです。

 

 神は何故、私のような気概のない男に、このような能力を託されたのでしょうか。

ねむたいのでなむります

 

デルクイ

先週の土曜日のこと。

 

その週は、苛立つことがいっぱいあった。

だけどそのどれもが、いまにして思うと、くだらないことだったり、悪いほうに考えすぎて、自分から招き入れた結果だったのかなあと思うことだったり、それは仕方ないよ、どう考えても相手がとった行動は当然の反応だし、お前が悪いよ。と思うことだったり。悪いというか、病的なものだから仕方のないことなんだけど。それでも「自分が正しい」と「自分のせい」という葛藤のサンドイッチで体調も優れなかった。

 

加えて誰もそんな現状を話す相手はなく。セックスなんてもう二年はしてないし、せめて物欲を解消して紛らわそうと思うも、買おうと思っていたものはことごとく買えずじまい。

 

そんなこんなで、そのときは完全に頭がHOTだった。

 

「おれっていまさ、誰からも必要とされてないじゃん。むしろ嫌悪感を抱いてる人間ならいるから、マイナスじゃん」

 

 

いまにして思うと、まったくその通りなんだけど。

 

まあそれは置いといて、そういうわけで冷静な頭じゃなかった。

 

おれはもともと(まあここ六年くらいの話だけど)原子力発電には懐疑的な立場の人間でして。

かといって、反原発組みの主張をなんでもかんでも肯定する気にもなれず。(一時的に恐怖心から血眼になってそこいら辺の情報を漁りまくり、そのひとたちのいうことを疑いもせず、信じていた時期もあったけど、このままじゃ自分の体が壊れると思って、折り合いをつける術をなんとか学んで、冷静さも取り戻した。そこで冷静になってわかったのは、個人的な日常の鬱憤を、そこに乗っかって主張してると思われる人や、自分で調べたというよりも、ただ流されて、鵜呑みにしているだけの人。それはたまたま反対の立場をとっているだけで、下手したら肯定側にいてもおかしくないくらい不安定な人。)

 

まあつまり世間のどこにでもいる人たちと変わらないわけです。そこに集っているのは。そんなん当たり前か。

 

まあそういういきさつがありまして。

 

そこで土曜日。

イライラしながら歩いていると、街頭で再稼働反対の署名運動を行っている団体がいたのです。

ほとんど無視されて、というより冷たい視線が圧倒的に多い。冷たい、というか一瞥をくれる、といったほうが近いかな。

なんかね、おれみたいな馬鹿が知ってる真実は、あなたたちみたいな、苦楽を味わいながら、人生を謳歌している人たちにこそふさわしい、知っておくべき事実なんですよ。

でもなんで、あんなことがあったのに、自分たちでどんなものなのかとか、調べなかったのかな、とも思うのですよ。だって、あなたたちには大切な人がいるんでしょ?その人たちを守ったり、自分を守ったり、権力とかメディアが垂れ流すものだけじゃなくて、いままで生きてきて学んできた猜疑心を働かせて、なんで自分で調べたりしなかったのかな、って悔しさやら嘲りやら憎しみやら哀しみやらで、気が付くとペンを握っていた。

 

結局あれは、手近なストレス解消に利用しただけなんだと思う。

無視されることへの報復。無関心への報復。

 

あれって名前だけじゃないんだね。住所を書くって知らなかった。

 

「すみません。署名って、住所も書くのですね。私、知らなかったものですから。…申し訳ないのですが、私は実家暮らしなものでして、家族には迷惑をかけたくないのです。自分の家を持った暁には、堂々と住所まで記入したいと思っていますので、今回は名前だけでも、よろしいですか?」

 

名簿には全部で20人ほどの名前があったと思う。

 

時刻は4時を回っていた。

これだけの人が通りながら、20人。

そしてそれは、大半が家族の連名であった。

 

きっと独り者の署名は、おれしかいなかったのではないかと思われる。

 

 

ところで、ですね。

 

書いてしまったのですよ。

 

緊張と見栄と羞恥心によって。

私は住所まで記載してしまっていた。

さきほどのカッコ書きは、住所を記入しながら頭の中を駆け抜けていった言葉たちなのだ。

 

母さん、ごめんなさい。

 

最近の政府はこわいからな~

ブラックリストとしてチェックされたりしないか心配だな~

 

 

 

 

 

ママーーーーーーーーーーー泣

 

 

 

 

 

 

 

これによって学んだことがひとつある。

 

 

出る杭は打たれる。

 

 

おれの勇気や正義感は、外の世界だしていいほど固まってない。

 

自分のことだけを、やりなさい。

かといって!人助けをまったくしない、というわけじゃないからな。

お前の場合ここどうせ履き違えるだろうからさ、釘刺しとく。

 

 

 

直感で嫌だと思ったり気乗りしないままそれを続けるくらいなら、いったんやめてみる。

 

たとえぶつぎりでも

 

意外と最後までそれを続けてもたいした収穫にはならないし、途中からでもいつかやり直せばいい

わたしは、ダニエル・ブレイク

いつもの目薬をもらおうと私は行きつけの眼科に向かうため朝も早くから準備をして、そのためだけに外出をした。にもかかわらず、眼科は医師会とやらで休み。なんのためにバス賃まで支払って出てきたと思っているのだ。と溢しても閉まっているものは閉まっている。

 

仕方なく賑やかな街の方へとふらふら徘徊をはじめた。時刻はまだ朝の11時。カフェに入って本を読もうかと思ったが今はそんな気分ではないな、と思い直し、なにかいい映画はやってないかなとググりんぐ。するとどうだい、あの「ビューティフル」と同じ賞(パルムドールバロンドール?)をもらったという映画があと20分後に上映されるではないか!これは、運命の出会いかもしれない。と私は期待と興奮に満ち、履きなれない革靴の靴底を軽快にうち鳴らし、歩を進めた。ちょうどここから行けば、歩いて15分ほどの距離にあるし、5分あれば、映画のイントロダクションを追うこともできる。これは運命だと半ば確信していた。

というのは、後から盛り付けた話で、しかしまあとりあえず、外れるということはないだろうというのは信じて疑わなかった。

 

そもそも自分という人間は、ダーツのような人間なのである。家を出る前、前日からどういう経路で外出するのかを計画し、実行にうつす。ふらっとでて、どこかに寄る。という実に高等なお出掛け方法は、私の脳にはインストールされていないのである。であるからして、今回のようなある予定が潰れたゆえに、穴埋めとして映画を見る、なぞという高等技術は、私からしては考えられなかったような芸当なのである。

私も成長したなあ。

 

で、

 

肝心の映画なのであるが。

 

あらすじはこうだ。大工ひとすじで妻に先立たれた老齢の頑固ジジイ、ダニエルブレイクは、心臓の病気により、医者から仕事を控えるよう告げられる。仕事をしないとなると収入がなくなる。ダニエルは国から失業手当てをもらうため、申請に赴くのだが…。というまあよくある話。そしてそこで同じように手当てをもらうための申請にきていた二人の子をもつ母親ケイティ。その母親もダニエル同様、役所の塩対応の憂き目にあっていた。それを見かねたダニエルはしびれを切らし、母親に加勢するかたちで役所の人間に口吻を飛ばし、彼らはその場から追い出される。

 

そんなわけで、知らないシングルマザーの隣人ができ、収入もないくせに家の補修や光熱費の支払いをこっそり渡すなどの世話をやくダニエルジジイの温厚な一面が見られます。

 

なんというか。おれもね、ここ一年くらいかな。映画館で泣きたい気持ちってのが、だんだんわかるようになってきたというか。泣くっていうのは一種の麻薬作用があるというか。感情を日頃ため込むだけため込んでいるので、こうして公共の場で人目をはばからずに泣くことができる場所ってのは、すごくいいなと。家で泣くのはほんとうにメンタルが崩壊してるときだけだし、家泣きはブレーキがきかないし、たいていが深夜なので、浄化作用というよりは、いったんドス黒く染まれるだけ染まってしまって茫然自失になったとこで呆けた状態を経てだんだん元に戻るというプロセスをたどるため、家泣きはほんとうによくない。

そのてん、公然と泣ける映画館ならば人目もあるし、なにより作られた暗闇だし、そして自分の問題ではなく、作られた物語によって泣いているので、落ち込むということはない。

かといって自分の琴線に触れてくる映画なんてなかなか出会うこともない。よほど自分とリンクするなにかがないと、泣きたくても泣けないのである。

泣きラインを下げたこともあるが、その涙は涙を流すという行為に傾注するため、映画で泣いたのか悲しいことをひねり出して泣いたのかわからないし、頑張って泣くもんだから変な疲労感がしこりのように残るため、気持ちよくなれない。

 

まあそういうわけで、映画館で泣くのもいいなあという味を知っている私が、この映画なら泣けるスイッチをONにしてもバチは当たるまい。と意気込んでいたのだ。

 

 

が、合わなさすぎた。

 

 

物語が終わりに近づくにつれ、劇場で鼻をすする音もしばしば聞かれた。まあこの映画館は年齢層が高めであるから、なにか感じるものがあるのもまた事実なのかもしれない。だがまあ若造である僕は「はやくおわんねーかなあ(はなほじ)」という感想を抱いていた。

 

私は映画や音楽や小説を見聞きするときに基準にしているものがあって(いまおもうと)、自分のなけなしの知識を照らし合わせ、想像できる範囲内で現実味があるかどうかという基準で見ている。

それは人物の描写、挙動、音のひねくれかた、隠している感情、見えないこだわり、過剰すぎる演出、思想の押し付け、等々。

フラットであるかどうか、というのがおれの人生の決まり事なのである。知らんけど。

 

 泣いておられる方もおられたので、こんなことをいうのはタイヘン失礼であるし、世界中が感動し、さらには名のある映画祭の賞まで獲得している作品に対してこんなことをいうなんてのは神経が狂っているのだといわれても全力で否定できるほど人間味がない人間であるからして、それでも僕にも人権が許されているはずなので、僕個人としての考え方として、発言だけは認めてくださるのなら、僕はダニエルブレイクにも劇場で思わず中指を立てそうになった。何度も

 

でもね、ひとつ待ってほしいのが、現実っていがいとこうなのかもしれない。ということ。おそらく大半の人間はこうだろうというか。世の中に暮らすひとたちの目線って、ここ止まりというか。いや、べつに僕が優れているとかいうわけでは全然なくて、っていう否定をするのもなんかずるいなあという気持ちでして。

 

近年よく思うのは、社会が、世の中が、構図化しているなあということなんです。

わかりやすいたとえでいえば、政治ですよね。右、左、原発ないと電力が~派と反原発派。みたいな。

 

死ぬまで一匹狼であるだろう僕は群れるものが信用ならんのです。

もちろん妬みもありますが、群れると疎かになったり低質になったりするという紛れもない事実があります。

 

だから反体制を全面に押し出してくる、庶民側に立っていることをことさら強調してくるものは眉唾なのです。そこに予定調和があるとわかると、すぐに冷める。

 

窓口の担当者も不親切にもほどがあるし、むしろ現実は表面的には笑顔を取り繕いながら見えないところで残酷な仕打ちを働くのが、国家であり、政治家であり官僚であり人間であって、あれほど露骨な悪役はいまどきいないだろう。

 

体制にたてつく、役所が悪い、政治がひどい、こういうことを声高に訴える庶民は、攻殻草薙素子の言葉を借りるなら、「あわれなほど現実を知らないプロレタリア」なのだ。

結局これまでに多くの人間がその道をとおり、憂き目にあい、当事者になってはじめて気付く。

生まれたときから国家というのは自分の味方ではないし、当然家族でも隣人でもない。

そんな単純な事実を知らず、税金を払っていれば面倒をみてくれるだろうという甘い考えや、何かを信用するということの重要性を、人生のなかで省みてこなかったお前はどうなのだ、ということを問いたいわけです。同じあわれなプロレタリアとしてね。

 

だからことごとく腹が立ちましたよ。ダニエル。残酷だという声が聞こえてくる。そんな自問や自責はとうにしてる。つーか現在進行形だよ。

それでも同じ立場だからこそ、もっと関心を持ってほしかった。国家ってのがなんなのか。人間とは、宇宙とは。ってね

 

邦画はこういう愚痴になる映画がほとんどなので、はなから見ないんだけど。外国の映画でもこういうの意外に多いな、ということに今回思い至った。

 

ということは、世の中、世間、というのは世界と同義なのかもしれない。

チープな感動で満足するのは日本人特有のものなのかと思っていたけど、どうやら国境は関係ないようだ。

 

国家は見捨てるけど、隣人は見捨てない。みたいなのがこの映画のコンセプトみたいだけど、(少なくとも日本向けの広告はそう)

隣人が果たして助けてくれるでしょうか?

てか、この期に及んでまだだれかを信用するつもり?

その価値観で生きてるようじゃ、裏切りは一生つきまといますよ。

まさかと思うかもしれないけど、裏切りに合わないためには信用しないことが鉄則だと思います。

そりゃあもちろん愛しあっている恋人や家族はこれの範疇ではありませんよ?

それ以外の隣人のことをいっておるのです。

この答えは映画「ミスティックリバー」を見ていただければわかります。

むしろ隣人は無視するに限るのです。それがたとえ、だれかから残酷だといわれようと。家族さえ、愛する人さえ守れるのなら、それがこの世界で何かを信じ、愛し抜く唯一の方法なのです。

 

つーわけで、ハズレ映画にあたってしまったのでした。ここまでこき下ろしてしまった理由は、お話したとおり、ああいったいきさつがあったために、期待値が高すぎたことが起因となっていることも付け加えておく。

 

まあ、演技はみんなさすが、って感じでしたよ。欧米人はさまになるもんなあ。