teresuwatebesu's blog

ときどき宇宙のことを考えるといいらしい

笑いのツボが浅いんですぅーっていう女の子ひとり笑わせられなかったよ

人肌恋しくなって数ヵ月が過ぎようとしている今日この頃、

 

ワタシはとある出会い系、というとヤリモクと思われがちだが、フェイスブック経由でアカウントを作らなくてはいけない上、有料会員に登録しなければやりとりができないという、けっこうマジな出会い系サイトに登録した。

 

年齢認証さえクリアすればだれでも利用できる出会い系サイトなどとは違って、

(まあ、男性にどういった人がいるのかは見れないのでなんともだが)

少なくとも女性にサクラはほとんどいないか、いてもすぐに追放されるようだ。

 

パートナーと呼べるひとを探すべく、一大決心をして登録したわけだが。

 

今回、そのサイトを利用する数ヵ月前から、あらゆる個人ブログなどで評判を調べ、○○歳の非モテ男子を自称するブログ主ですら、自分の意中の女性とお付きあいにまで漕ぎ着けた、というではないか。ならばおれもと鼻息を荒くして挑んだわけだけど。

 

 

 

おれはあることに気付いた

 

 

写真が……ない。

 

 

そこには、「充実」という2文字を絵に描いたようなプロフ写真の数々…

 

あるときは、洒落乙なケーキバイキング店で、あらゆる趣向を凝らされたケェーキを前に、俯きがちな笑顔で舌鼓をうつ、女の子。

 

またあるときは、僕の知らない、でも世間では知られているであろうリゾート地の海を背景に、伸びきった手足が、その心と体の解放感を如実に表現しているレディー。

 

またあるときは、姿見の前に颯爽と立ち、オシャンティーなコーデでキメて、サブ写にはこれまたオシャンティーなカフェーのミールを片手にウインクするガール。

 

またあるときは、振り袖を着た和美人を、さりげなさを漂わせながらアピールするとともに、そのプロフィール欄の充実ぶりに、私の人生とは、、、となにかわからないところで自分と比較してしまう始末。

 

 

そうである。

 

写真が、ないのである。

 

それは女性だから、というだろうか?

否、男性の写真だって髪をセットし、洋服を整え、背景からは風と光が注ぐような白い快適な住まい空間で撮られたものが多いのだ。(多少誇張)

 

 

背景が開けた場所で撮った写真など、7~8年前までに遡らなくてはいけない。

それとて、せいぜい2~3枚である。

 

そしてもっとも致命的なのは、プロフ写真の大半は、他者が存在しているのである。

 

それは写真に映り込んでいる、というわけではない。

 

被写体を撮る、人間がいるのだ。

 

 

ワタシはその人間を探してここにきたようなものであって、その存在がいれば出会い系サイトなどというものに縁はなかったはずなのである。

 

 

まざまざと見せられる現実。

ワタシはいままで、嫉妬や焦燥といった感情とは無縁であったことが、誰にいうわけでもないが、密かな誇りであった。

 

 

動じない、我。

ブレない、我。むふ

 

 

なんということでしょう、

それは単純に、自分が築き上げた同級生との疎遠によって

視界に入ってこなかった、だけなのである。

 

ワタシは嫉妬や焦燥を通り越して、死ぬ算段を考えていた。

 

だがしかし、一応課金したあとだし、やるだけやってみるかとキヲトリなおしたワタシは、とりあえず先々月の忘年会のときに撮られた、なんだかよくわからない集合写真に映った、酒に赤らむ呆けた顔を切り取り、プロフに据えた。

 

 

というかですね、フェイスブックじたいこれを機に初めて登録したわけでありんして、それが、表示されるんすよ!!10人未満て。

 

ワタシの独自調査によると平均して100は軽く越えてる。

人付き合いがあまり多くないひとでさえ、50はいるのだ。

 

 

ワタシは絶句した。

 

 

 

スタートラインが、違いすぎる。

 

 

課金した手前(しかもなんの手違いか3ヶ月プラン)

 

ワタシはワタシはワタシはワタシは

 

来世に期待しようと思いました。

 

おしまい

 

 

 

と、いうのがこれまでのワタシのいつものパターン。

 

ふっ、もうこれ以上落ちるとこがありますかぁー??ってんだべろべろばあーーー。☺

 

 

こうなれば自撮り雰囲気作戦に転換だ、姿見が家にないので、さっそく明日、仕事が片付き次第、ユニクロの試着室へ直行だ!!!愚の骨頂だ!!!いそげ!!

 

気付いたこと

「すぐに死ぬ」という覚悟があれば、人生で重要な決断をするときに、大きな自信となります。

https://youtu.be/RWsFs6yTiGQ

最近たまたま若くして亡くなった天才棋士のノンフィクション小説読んだのと重なって気付いたんやけど

 

この「死ぬ」っていう実感を持てるかどうかが、天才のひとつの要素であり、天才は「死」を概念として克服してるんだな、って思った。天才たる所以。

 

偉人の名言とかよく取り上げられるけど、言葉として受け取って、それを自己啓発的に利用するのって、間違いではないけど、究極的には別物なんやなーと。

 

おれはたまたま、賢くて自我を持ち、倫理観の備わった人たちの情報を耳にしてるうちに、そう遠くない未来に日本人はもう存在してないっていうのを、半ば強引に、ある種の真実、というか事実として悟ってしまった節があるから、「死」を自覚するようになったわけだけど。

だから、いまならわかるというか。天才はそういった事実というよりは、かもしれない、っていう発想と経験から自分を鼓舞してるんやろうなと。

この感覚をふつうに暮らしてる頃から身につけるんだから、天才って半端ねえ。

終着

やっと、ようやく、映画や小説や漫画やアニメや音楽を、見たり聞いたりしてきたことの意味が、あったと言える口実ができた。

 

はじめはそんなことを考える人間ではなかった。

太宰やカートヴォネガットJr.が好きだと言っていた当時の友人に、色々な人間の醜さを聞かされ、彼はおれのことを見透かして、遠回しに詰っているのか?と、おれは気が気でなかったのを覚えてる。

 

どうして彼はおれにそれを話したのか。さほど思慮深いタイプでもなかったのに、なぜか彼はおれに対して饒舌にしゃべった。今にして思うと、彼はきっと寂しかったのだろう。こんな暗澹たる気持ちを、高校生のときから一人で抱えていたのでは、耐えられず、誰かに話してしまいたくなるのも無理はない。

 

きっかけというきっかけは、それだった。おれがこうして拗れていった理由。

 

 

それからずっと、なにかがおかしくて。人としていられない、いちゃいけないような、とにかくずっと落ち着かなかった。

 

おれは自分でも気付かなかったけど、でも数を知れば、芸術に触れる回数を稼げば、何かが、この禅問答のような問いに、自分なりの答えらしきものを導き出せるのではないかと、次第に思うようになっていたらしい。

 

それは、悪に対する怒りややるせなさや殺意を、宥めるための哲学だった。

強すぎる正義感。行動を伴わない正義感になんの意味があるのか。それはただ自分を苦しめるだけの毒として、僕の精神を蝕んだ。

 

歴史は生きている。歴史はどうやら、呼吸をしている生き物らしい。

あらかじめ決められた大きな流れの中の一部にすぎない僕は、なにかを証明する必要などなかった。

 

そして凡庸である僕の脳と肉体と精神は、DNAの損傷によっていつ終わるか知れないこの時間を、終わりから逆算することで、落ち着きを取り戻している、のかな。

読む価値なし

今後ここに整理していこう。

 

単純に記憶力ないのと、その場ではそれが自分はやっちゃいけないことだと気づいても動揺してて&自分で自分に見栄はって隠そうとするからここに書き込んでおく。

 

■食い物に使う金に迷ったら、そいつは買うな

 

■緊張してるって自覚があるなら冒険はよそう。

 

 

いくつよ、おれ

 

おわり

もぐら

もぐら

 

大衆に身を投げ
心を売り飛ばし
主観を偲ばせ
塗りつぶした個性
これだけやって
手に入るのはなけなしの金

すし詰め電車
病院の待ち合い室もこんなんならん

こわい顔した知らん顔のやつが
知らんやつと会って相好を崩す

仕事も生活も穴ぐらみてえ
死ぬよりほかないが
生きるよりほかない

そんなもんだという慰めは
さらにおれを殺したいのか?

ないなりの個性にも生活はある
目に映るか映らないかじゃなくて
見えないものに対する己のなかでのけじめ

理性と感情以外の何か

プライムに、前劇場で見れなかった「イミテーションゲーム」があがってたので、それを見た。

 

星五つですね。

いやー、すごい映画だ。

 

気取ったところがひとつもない。過去にあった歴史的事実を淡々と述べられている。

 

天才の物語が描かれるときって、たいていそれを作る側の人間が妙に肩入れしたり、天才の苦悩をいやに誇張したりする演出が見受けられたりして、なんかこちらとしては目につくといいますか。リスペクトはわかったからさ、、という気分にさせられると同時に、自分の卑小さを恨みはじめるというわけのわからない状態になることもありにけり。という話はおいておいくとして。

 

映画の構成という意味では素晴らしい。現実にいたか知れない女性の存在も、疑り深いおれは、「おや…これはこれは、(痴呆ぎみのギャラリーにとって)つまらなくなりがちなストーリーに、あえて華を添えてやることで、なんとか集客効果を狙おうという戦法で登場した、単なる「花」かね?」とキーラナイトレイが登場してきたシーンでおれはそう思い、映画にすこし失望しかけたが、なんのなんの。これはまったくの思い違い。むしろなくてはならない存在として輝きを放っている役だった。

 

 

 

はい、そしてこの内容、に関してはさまざまに思うところがありました。英国政府が機密情報として、50年間ひた隠しにしてきた、歴史的事実に基づくストーリー。

 

50年前でさえ、膨大な情報が飛び交い、人命や土地は、人類や、国家にとって結果的に有益であるかどうかという基準だけで取捨選択されてきたという、目を疑いたくなるようなあまりにも惨い現実。

 

いまだにこういった話をすると、たいていのコミュニティでは馬鹿にされる風潮があるし、陰謀論のひとことで片付けたがる輩もいる。

 

そういったやつらを黙らせるにはうってつけの映画だと思った。笑

それだけでもこの映画の価値は大きい。

 

証拠を出せと、すぐに人はいう。証拠がなければ信用に値しない、と。

 

でもさ、この心についてまず考えてみよう。

心で感じたことを、ありのままに、脳が感じたことをなんの脚色もせず、書けたり喋れたり心の中でつぶやけたりしたことが、一度でもあっただろうか。

 

それは単なる勘かもしれないし、無意識的に、経験的に感じ取った結果かもしれない。でもそうした直感が、ときにはどんな弁解の言葉よりも事実であることなんか、ごまんとあるではないか。

 

随分飛躍したな

 

書き殴るってこのことか

 

いやー、やっぱ感情を吐露するって大事なんやね。

もやもやをもやもやのままでもいいから言語化しておくのは心の余裕や安心感を得るために大事なことかもしれない。

 

今週末は映画館でザコンサルタントを見る予定。

 

あ、ただ戦争のシーンだけはチープで思わず吹き出してしまった。イミテーションゲームね

 

自分で読み直したけど、さっぱり意味わからんわ

ミスティックリバー

今日はすごい映画を見た。

 

ミスティックリバーってやつ。

 

視聴する前にアマゾンレビューをちらと見たときに、たしか「筋は読めてしまうが~」と書かれていたような気がしたけど、おれは全然読めなかった。読めなかったというか、読んでたけど違った。

 

 

しかもこの映画の面白いところは、見る人によってまったく感想が異なっていること。

着眼点も人によってまちまちであること。

 

たしかに何かを描ききってるはずの作品なのに、受け手は混乱させられる。

 

 

おれがこの映画を見て感じたことを素直に書いてみる。

 

まず最初は、子供時代における3人組。

生意気なジミー、抜け目ないショーン、三人の中では臆病者のデイヴの三人は仲良く住宅付近の道路でホッケーをして遊んでた。

 

するとデイヴは下水の穴の中にホッケーの玉を落としてしまう。

 

目立って描かれてるわけじゃないんだけど、おれとしては、デイヴを見るときのほかの二人の視線に、少し冷たいものを感じてた。

まあ、これって女の子は知らんけど、男のガキの頃は珍しくもないことで

友達ではあるんだけど、人より少し、どんくさい友達を見るときの、軽蔑を含んだ眼差し、言動。

 

軽蔑と呼ぶにはあまりにも小さく、ほとんどの人間が省みることのない感情の起伏、のようなものを…

 

うーん、いま考え直してみてもそこははっきりとしたことは言えない。やっぱ。

べつにそこまで悪意を持って描かれてるわけでもなかった気がするし。

 

とりあえず話を進めて…。

 

ジミーは退屈しのぎにちょっとした悪さを思いつく。

 

おれもやったから、おまえも、という暗黙のルールのもとに。

整備したてのコンクリートにそれぞれが名前を書いていく。

 

そして3人目のデイヴが書いている途中で、車から降りてきた、ある大人に注意される。

 

あのそれぞれの受け答えの描かれ方が秀逸だった。

 

こんなことしていいと思ってるのか?という問いかけに

1人ずつ答えていく。

 

デイヴ「いいえ」

ショーン「いいえ」

ジミー「いや、…いいえ」

 

デイヴとショーンのいいえの違い。

同じいいえでもその中身が違うと思った。

ショーンはとりあえずこの面倒を終わらせるための無難な答えを選んだ、といった感じで。一方のデイヴはさまざまなことが頭を過ったのだろう、そのいいえにはこれ以上ことを荒立てたくない、恐怖心、悪いことがバレたという焦り、

 

ジミーは例外中の例外(笑)

 

そしておれは後ほど思う。

 

というか、そんな生き方ができてる時点で、もう幸せだったろ、というか。

俺という人格の中からは、残酷な感想が浮かんでくるだけだった。

 

ジミーへ同情する気持ちは、かけらも浮かばなかった。最終的には。だけど

 

途中まで騙されてたときは普通に同情し、デイヴを殺せと思った

 

デイヴがあんな悲惨な目に合ったことも、

 

ことすらも忘れて、

 

いや、覚えていたけどそれを差し引きしても、殺せと思った。

 

だけどそれがこの映画のミソで

 

きっとこの殺せという感情を

 

人間は見てみぬフリをして

またはそれを実行しても、騙し騙し

近しいものたちの幸せだけを、誰かの血が流れた結果生まれた副産物だとしても、それを騙し騙し享受して生きているんだなあと

 

もっとまとまった文章を書くつもりだったんだけどな

 

やめた

 

寝る

 

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というのが1/23付けで書き留めておいた感想。

 

いま読み返すと我ながら暴論のようだなあ、、と不安になる。

考える余白を残してる映画の感想についてはあまり言及しないほうが身のためかもしれない。笑

自分の劣等感が変なところで顔を出したせいで、子供時代の出来事が脚色されていたことが二度目の視聴で判明した。

ただそれは確率や偶然のもたらした産物であって、子供なら、いや、大人も含めた人間ならだれもがそうするように、隣人は隣人でしかなく、他人のために血を流すことはないのである。

 

そして、見方が変わったのは、ジョージとデイブに対してだった。

ジョージは終始孤独と戦っていた。誤解の連続。妻にさえ疑われているのだということに思いあたった彼は、妻の前で自嘲するように笑いだしてしまう。その行為と発言の解離が、彼の心の傷の深さを知らない人間にとっては、ただの猟奇的殺人者のそれと重なってしまう。

なにかの本で読んだが、人は真の絶望に直面すると微笑を浮かべるものらしい。それは自分にもなんとなくわかる。自分があまりにも惨めで、滑稽で神ってなんだ?と問いただしたくなるような心境。

 

彼が映る場面は、つねに気の毒な気持ちでいっぱいになった。

 

 

そしてジョージ。

おれはやはりこういった人間が嫌いなんだな、とおもった。

と、いうより嫉妬したんだな。

 

無償の愛に。

 

パパは王様なの

王様はそれがどんなに難しくても、必ずする

愛する者のためなら何でもする

それが大切なのよ

 

だってみんな弱いけど 私たちは違う

私たちは弱くない

 

あなたは

この町の支配者なの

 

最後のシーンで妻がしゃべった台詞。

 

ああ、これなんだよ、世界は、と。

この残酷さの集合体が世間なんだよ、と。

 

一回目の視聴はそこまでの感想だった。

でもいまは違う。

 

それを欲しいとおもった。喉から手がでるほど。

その他人に対しては圧倒的に無慈悲で、残酷で、世の中の大半から見れば、悪いことだったり、奇妙な言動だったり、嫌悪感を抱かれたりすることがらさえ、ただあなたとわたしという個人的なつながりだけで、すべてを信じ、ゆるしてくれるその真実の愛が。

 

臆面もなく愛について語る音楽や映画やドラマやメディアは問題外だが

それを見るにつけ、愛ってなんだろう、と巷ではよくいわれるけど、

 

愛ってこれだな、と思った。

血のつながり。それも一親等に限られる血のつながり。

道義的な正しさなどではかるのではなく、愛する者を守るために命を賭して、隣人に嘘もつくし、嫌われ役も買ってでるし、間違いを犯してもあなたは間違っていないと諭す。

 

真実っていうのは、あらゆることにおいて、世の中に流布されている事実よりも残酷だったりすることが多いけど。まさにこのケースはそれと同じだな。

 

まさかこの映画で愛がなんたるか、を学ぶとは思わなかった。

これは自分の基軸になりそう。

やっぱ映画って一回見ただけじゃだめだ。おれが頭の回転遅いのもあるけど、一回じゃ把握するだけで精一杯だったり、余計な感情が入り込んでくる。

 

だからこういう系の映画は劇場で見るのはどうなんだろ。映画代考えても二度見るというのはちょっと…。

スクリーンである意味もそんなになさそうだしね…。