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teresuwatebesu's blog

ときどき宇宙のことを考えるといいらしい

もぐら

もぐら

 

大衆に身を投げ
心を売り飛ばし
主観を偲ばせ
塗りつぶした個性
これだけやって
手に入るのはなけなしの金

すし詰め電車
病院の待ち合い室もこんなんならん

こわい顔した知らん顔のやつが
知らんやつと会って相好を崩す

仕事も生活も穴ぐらみてえ
死ぬよりほかないが
生きるよりほかない

そんなもんだという慰めは
さらにおれを殺したいのか?

ないなりの個性にも生活はある
目に映るか映らないかじゃなくて
見えないものに対する己のなかでのけじめ

理性と感情以外の何か

映画感想

プライムに、前劇場で見れなかった「イミテーションゲーム」があがってたので、それを見た。

 

星五つですね。

いやー、すごい映画だ。

 

気取ったところがひとつもない。過去にあった歴史的事実を淡々と述べられている。

 

天才の物語が描かれるときって、たいていそれを作る側の人間が妙に肩入れしたり、天才の苦悩をいやに誇張したりする演出が見受けられたりして、なんかこちらとしては目につくといいますか。リスペクトはわかったからさ、、という気分にさせられると同時に、自分の卑小さを恨みはじめるというわけのわからない状態になることもありにけり。という話はおいておいくとして。

 

映画の構成という意味では素晴らしい。現実にいたか知れない女性の存在も、疑り深いおれは、「おや…これはこれは、(痴呆ぎみのギャラリーにとって)つまらなくなりがちなストーリーに、あえて華を添えてやることで、なんとか集客効果を狙おうという戦法で登場した、単なる「花」かね?」とキーラナイトレイが登場してきたシーンでおれはそう思い、映画にすこし失望しかけたが、なんのなんの。これはまったくの思い違い。むしろなくてはならない存在として輝きを放っている役だった。

 

 

 

はい、そしてこの内容、に関してはさまざまに思うところがありました。英国政府が機密情報として、50年間ひた隠しにしてきた、歴史的事実に基づくストーリー。

 

50年前でさえ、膨大な情報が飛び交い、人命や土地は、人類や、国家にとって結果的に有益であるかどうかという基準だけで取捨選択されてきたという、目を疑いたくなるようなあまりにも惨い現実。

 

いまだにこういった話をすると、たいていのコミュニティでは馬鹿にされる風潮があるし、陰謀論のひとことで片付けたがる輩もいる。

 

そういったやつらを黙らせるにはうってつけの映画だと思った。笑

それだけでもこの映画の価値は大きい。

 

証拠を出せと、すぐに人はいう。証拠がなければ信用に値しない、と。

 

でもさ、この心についてまず考えてみよう。

心で感じたことを、ありのままに、脳が感じたことをなんの脚色もせず、書けたり喋れたり心の中でつぶやけたりしたことが、一度でもあっただろうか。

 

それは単なる勘かもしれないし、無意識的に、経験的に感じ取った結果かもしれない。でもそうした直感が、ときにはどんな弁解の言葉よりも事実であることなんか、ごまんとあるではないか。

 

随分飛躍したな

 

書き殴るってこのことか

 

いやー、やっぱ感情を吐露するって大事なんやね。

もやもやをもやもやのままでもいいから言語化しておくのは心の余裕や安心感を得るために大事なことかもしれない。

 

今週末は映画館でザコンサルタントを見る予定。

 

あ、ただ戦争のシーンだけはチープで思わず吹き出してしまった。イミテーションゲームね

 

自分で読み直したけど、さっぱり意味わからんわ

ミスティックリバー

映画感想 独自考察備忘録

今日はすごい映画を見た。

 

ミスティックリバーってやつ。

 

視聴する前にアマゾンレビューをちらと見たときに、たしか「筋は読めてしまうが~」と書かれていたような気がしたけど、おれは全然読めなかった。読めなかったというか、読んでたけど違った。

 

 

しかもこの映画の面白いところは、見る人によってまったく感想が異なっていること。

着眼点も人によってまちまちであること。

 

たしかに何かを描ききってるはずの作品なのに、受け手は混乱させられる。

 

 

おれがこの映画を見て感じたことを素直に書いてみる。

 

まず最初は、子供時代における3人組。

生意気なジミー、抜け目ないショーン、三人の中では臆病者のデイヴの三人は仲良く住宅付近の道路でホッケーをして遊んでた。

 

するとデイヴは下水の穴の中にホッケーの玉を落としてしまう。

 

目立って描かれてるわけじゃないんだけど、おれとしては、デイヴを見るときのほかの二人の視線に、少し冷たいものを感じてた。

まあ、これって女の子は知らんけど、男のガキの頃は珍しくもないことで

友達ではあるんだけど、人より少し、どんくさい友達を見るときの、軽蔑を含んだ眼差し、言動。

 

軽蔑と呼ぶにはあまりにも小さく、ほとんどの人間が省みることのない感情の起伏、のようなものを…

 

うーん、いま考え直してみてもそこははっきりとしたことは言えない。やっぱ。

べつにそこまで悪意を持って描かれてるわけでもなかった気がするし。

 

とりあえず話を進めて…。

 

ジミーは退屈しのぎにちょっとした悪さを思いつく。

 

おれもやったから、おまえも、という暗黙のルールのもとに。

整備したてのコンクリートにそれぞれが名前を書いていく。

 

そして3人目のデイヴが書いている途中で、車から降りてきた、ある大人に注意される。

 

あのそれぞれの受け答えの描かれ方が秀逸だった。

 

こんなことしていいと思ってるのか?という問いかけに

1人ずつ答えていく。

 

デイヴ「いいえ」

ショーン「いいえ」

ジミー「いや、…いいえ」

 

デイヴとショーンのいいえの違い。

同じいいえでもその中身が違うと思った。

ショーンはとりあえずこの面倒を終わらせるための無難な答えを選んだ、といった感じで。一方のデイヴはさまざまなことが頭を過ったのだろう、そのいいえにはこれ以上ことを荒立てたくない、恐怖心、悪いことがバレたという焦り、

 

ジミーは例外中の例外(笑)

 

そしておれは後ほど思う。

 

というか、そんな生き方ができてる時点で、もう幸せだったろ、というか。

俺という人格の中からは、残酷な感想が浮かんでくるだけだった。

 

ジミーへ同情する気持ちは、かけらも浮かばなかった。最終的には。だけど

 

途中まで騙されてたときは普通に同情し、デイヴを殺せと思った

 

デイヴがあんな悲惨な目に合ったことも、

 

ことすらも忘れて、

 

いや、覚えていたけどそれを差し引きしても、殺せと思った。

 

だけどそれがこの映画のミソで

 

きっとこの殺せという感情を

 

人間は見てみぬフリをして

またはそれを実行しても、騙し騙し

近しいものたちの幸せだけを、誰かの血が流れた結果生まれた副産物だとしても、それを騙し騙し享受して生きているんだなあと

 

もっとまとまった文章を書くつもりだったんだけどな

 

やめた

 

寝る

 

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というのが1/23付けで書き留めておいた感想。

 

いま読み返すと我ながら暴論のようだなあ、、と不安になる。

考える余白を残してる映画の感想についてはあまり言及しないほうが身のためかもしれない。笑

自分の劣等感が変なところで顔を出したせいで、子供時代の出来事が脚色されていたことが二度目の視聴で判明した。

ただそれは確率や偶然のもたらした産物であって、子供なら、いや、大人も含めた人間ならだれもがそうするように、隣人は隣人でしかなく、他人のために血を流すことはないのである。

 

そして、見方が変わったのは、ジョージとデイブに対してだった。

ジョージは終始孤独と戦っていた。誤解の連続。妻にさえ疑われているのだということに思いあたった彼は、妻の前で自嘲するように笑いだしてしまう。その行為と発言の解離が、彼の心の傷の深さを知らない人間にとっては、ただの猟奇的殺人者のそれと重なってしまう。

なにかの本で読んだが、人は真の絶望に直面すると微笑を浮かべるものらしい。それは自分にもなんとなくわかる。自分があまりにも惨めで、滑稽で神ってなんだ?と問いただしたくなるような心境。

 

彼が映る場面は、つねに気の毒な気持ちでいっぱいになった。

 

 

そしてジョージ。

おれはやはりこういった人間が嫌いなんだな、とおもった。

と、いうより嫉妬したんだな。

 

無償の愛に。

 

パパは王様なの

王様はそれがどんなに難しくても、必ずする

愛する者のためなら何でもする

それが大切なのよ

 

だってみんな弱いけど 私たちは違う

私たちは弱くない

 

あなたは

この町の支配者なの

 

最後のシーンで妻がしゃべった台詞。

 

ああ、これなんだよ、世界は、と。

この残酷さの集合体が世間なんだよ、と。

 

一回目の視聴はそこまでの感想だった。

でもいまは違う。

 

それを欲しいとおもった。喉から手がでるほど。

その他人に対しては圧倒的に無慈悲で、残酷で、世の中の大半から見れば、悪いことだったり、奇妙な言動だったり、嫌悪感を抱かれたりすることがらさえ、ただあなたとわたしという個人的なつながりだけで、すべてを信じ、ゆるしてくれるその真実の愛が。

 

臆面もなく愛について語る音楽や映画やドラマやメディアは問題外だが

それを見るにつけ、愛ってなんだろう、と巷ではよくいわれるけど、

 

愛ってこれだな、と思った。

血のつながり。それも一親等に限られる血のつながり。

道義的な正しさなどではかるのではなく、愛する者を守るために命を賭して、隣人に嘘もつくし、嫌われ役も買ってでるし、間違いを犯してもあなたは間違っていないと諭す。

 

真実っていうのは、あらゆることにおいて、世の中に流布されている事実よりも残酷だったりすることが多いけど。まさにこのケースはそれと同じだな。

 

まさかこの映画で愛がなんたるか、を学ぶとは思わなかった。

これは自分の基軸になりそう。

やっぱ映画って一回見ただけじゃだめだ。おれが頭の回転遅いのもあるけど、一回じゃ把握するだけで精一杯だったり、余計な感情が入り込んでくる。

 

だからこういう系の映画は劇場で見るのはどうなんだろ。映画代考えても二度見るというのはちょっと…。

スクリーンである意味もそんなになさそうだしね…。

あば世

本来この世は、才能のある人たちだけのための世界。
あるいは無自覚なままの才能のない人間たちだけがしゃぶれる世界。

 

自覚のある才能のない人間にとってはそのどちらにも憧れるか妬むことしかできない失望を味わい続ける世界

 

人間の才能の優劣だけで判断したときの幸福度指数

 

おれが結論付けた暴論

でもこれ、真理じゃない?

 

 

 

 

 

 

と、おれのなかの成分が申しております

 

叛逆の物語

前回に引き続いて、まどマギ考察

 

今回は通しで本編ストーリーを見たあと、続けて叛逆の物語を見た

 

個人的な感想の羅列

 

まどかのKY

ほむらの首を何度締めれば気が済むのか(笑)

 うーん、なんだろう。主人公なのにこの威厳のなさ。ほむらがそうまでして守りたいと思った女の子は、どこにでもいる普通の女子。

すべての魔法少女の消滅を宣言した彼女はたしかに、「優しすぎる」という表現も当てはまるかもしれない。

 

だけどそれ以前からほむらはまどかに惚れ込んでいたはず。そういうエピソードが本編なり番外編なりで30分でもあったほうが、まどかも顔を立てられたんじゃないかとかいうアニメキャラへの余計なおせっかい。笑

 

 

とまあ、いきなりマイナス面を書いちゃったけど、おれこの作品めっちゃ好きです。

 

はい、次。

 

 

さやかのほむらに対する救済ね。

 

今回この叛逆の物語を再見して、自分の中で株が上がったのが、三樹さやか。

 

考え方が本編からずーっと、一貫してる。

 

さやかとほむらが会話するシーン

 

さ「始末するの?ただ魔女だから、って理由で。」

さ「これってそんなに悪いことなの?誰とも争わず、みんなと力をあわせて生きていく。それを祈った心は、裁かれなきゃいけないほど罪深いものなの?」

 

このひとにこそほむらは惚れるべきでは?笑

 

こうやって活字にすると、いいこと言ってるなあ、という気にますますなる。笑

 

 遠回しにほむらのことを自分を責めすぎなくていいよ、と言っています。

 

このときほむらが

「あなた、魔女の肩を持つ気?」と狼狽しながら尋ねるあたり、ほむらは魔女に対して根本的な部分で否定的なことが窺える。

 

魔女は結局魔法少女のなれの果てだと知りながら。

 

ほむらは一貫して魔女に対しては目的を邪魔するものでしかなく、まどかの魔法少女たちの救済という行動さえも、まどか1人が人間として救われないのであれば、それはほむらにとってただただマイナスなことであり、

魔女に対するそれほどの嫌悪感は、ほむら自身が自分に課したルールに反するものであり、無意識からくる自責の念を抱いてるからだろうな。

 

 

絶望を「輝きと後悔だけしか思い出せない」って表現するの凄すぎるよね。

 

 

一番の盛り上がりであろう悪魔ほむら誕生については、何度見ても特別な感慨が湧いてくることはない。

 

んーなんだろ、やっぱそこは、まどかのなにがそこまで夢中にさせたんだろう、という疑念がのこる。

 

KYで、まあ比較的前向きな性格で、自分勝手なのはよくないんじゃないかな…?という曖昧な考え方しか持っていず、相談に乗るよ、というときも、わたしなんかでよかったら、アドバイスはできないけど、と必ず前置きする、キューべぇとの会話だって感情的&感傷的になるばかりで「やめて」しか言えない。

これはつまるところ、どこにでもいる、女子。ではなかろうかと。

 

だからほむらはたまたま優しくしてくれた女子が、どこにでもいるタイプの女子だとは気付かずに惚れ込んだのでは、とか考えちゃうとね、引っ掛かるのです。

 

 

逆にこうなってくるとまどかが不憫でしょうがない。笑

もうちょっと丁寧に描いてあげて、と。笑

ヒロインとは思えないくらい、この物語に出てくるキャラクターのなかでは没個性が際立つ…

 

 

でももし、まどかにまで感情移入できるような人格が備えられてたら、ずっと嗚咽あげながら見ることになってたかもな笑

 

小休止という意味でよかったのかも笑

まどかの扱いよ笑

 

明日返却忘れんようにせんと

寝る

まどマギ再見からの脱線事故

まどマギを通してみたのはたしかこれで三回目?かな。(前後編のやついれると四回目)

 

クライマックスに向けての怒涛の展開を知っているからなのか、自分が少し大人になったのか、あるいは暁美ほむらに萌えーーなのかはわからないけど、最初見たときには目についていた前半のほうの各キャラクターに対するツッコミとか、演出っぽさとかが気にならなくなってた。というかむしろ、そういうシーンにこそ、ありきたりな台詞のように聞こえながら、もっと深い意味での発言だったのかと気づかされるシーンもあって、あのときは心と視野が狭い時期だったのだなあと思ったりした。たしかにいまでも「おや?」という部分もあるにはあるけど、でもそれも最後の展開で納得できちゃうというか。それにまだ頭の柔軟性が足りない可能性も。

 

いやー、それにしても、ラスト三話くらいからの展開はそれまでとは一線を画すね。

事情がわかってからのほむらちゃんは、姿が霞んで毎度見えなくなる。涙である。

 

概念になるということは、いつでもそこにいるということ。それでもやはり、肉体を求めてしまうものだろうか。それがたとえ同性であっても。

それとも理屈じゃない、というやつだろうか。

 

でもなんだろう。現状のおれとしては、概念に見守られるってことほど幸せなことはないと思える。

これはまあ、親友はおろか、友達が言葉通り居なくて、年末最後のラインは職場の人間とのやりとりで、年始のラインのやりとりも同一人物という本当に骨の髄まで孤独なおれだからそう思うのかもしれないけど、という但し書きをしたうえで書くけど、

生身の人間に思われるより、概念に思われてるほうが、心強いし、自分が強い人間でいられるような気がする。そもそも生身の人間が思うことと概念が思うことでは、その密度も質も時間も圧倒的に違うし、人間が誰かを思い浮かべ、その人のことを思う瞬間なんて、実際ごくごく僅かな瞬間でしかない。そして百年と持たず死ぬしね。

それに引き換え概念なら、つねにそこにいるし、しかもまどかの場合は記憶もセーブされてる。そんな存在になったことで、いつも一緒にいられるわけだからほむらちゃんが悲しむ必要はもうなくなったと思うし、というのは女子中学生にとっては酷な話か。

 

 

 

 

諦めてるし、絶望してるし、失望したし、もうどうなっても知らない。けっきょく人類は学ばないらしいし、そういう生き物が寄り集まってできた宇宙からみたら下等生物なんだろうな、という感想をもって、悪化するしかない世の中にはもう見切りをつけたし、それは自棄半分、どうでもいい気持ち四分の一、なんかへんなドーパミン四分の一、みたいな感情の自分でさえ、きっとそのときになったら少しは後悔しだすと思うのね。

だからなんというか、そこは残念だったなーというか。

ああ、そのケースね。まあ、そういう場合って、ふつうに存在してたんだけどね、それを無視する、気づかずにいた、っていう日々が、もうすでに対価として支払ってたわけで、

 

もとからそういう世界だったんだよ、というだけの話。

 

まあ、深くその代償について考えすぎればこういうふうにあらゆる人間の生活を棒に振ることになり、人生を(資本主義経済社会の人生を)謳歌して生きるということは不可能になるうえ、けっきょくこんなことを考えたところで、なんのやくにも誰の役にも立たないどころか、自分のためにもならず、ひいては精神的、肉体的な疲労多く、それを差し引きしても、圧倒的に無知であるほうが幸せなのである。

 

誰も清算なんてしないしねー。ん?神様??なんで死んでまで人間の尺度で裁かれなきゃいけないの?悪いことをした人間は裁かれる?僻み恨み辛み嫉みから生まれた感情を神の名を冠して消化しようなんて、人間の考えそうなことじゃないか。宇宙の理は、人間のものさしではかられているんですか??

 

 

 

 

 

 

 

今日も鼻毛はのびる。

今年も終わるなあ

今年が終わる

 

筆不精なおれはきっとこれが今年最後の更新になるだろう。

 

というかまったく日記書くつもりもなかったんだけど、「あ、そういえばもう12月か。」とたったいまふと、年末感が降りてきたので指を動かしている。

 

今年こそ家を出ると誓った去年の大晦日と今年の元日。

 

その夢はまったく果たされなかったけれども、自分という入れ物の扱い方が若干わかってきたかな、という年になった。

 

25年間のなかで、一番まともに生きられた日が多かった気がする。自分の目線で過ごすことができる日が多かった気がする。

 

去年の大晦日の来年に対する意気込みは、ちょっと自分の許容範囲をオーバーしてる、というような気もしてたけど

 

なんとかまあ、それなりに過ごせたと思う。

 

有り難いことに、仕事の死にたいほどの悩みからはこの一年半ほど解放されてる。

 

自分の不甲斐なさ、仕事のできなさに毎週死にたくなってたことあったの、いま思い出したわ…

 

それもたまたまいまの環境と仕事量が、なんとか自分がやれることの範囲内に納まってるから、ほんとに、なんとか、現状は死にたい病が出なくなってるだけだからね。

 

ある意味奇跡だよ。

 

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仕事ってのはマルチタスクが基本だ。

それはおれがもっとも苦手とすることだ。

 

複数のことを、自分で優先順位を振りながら、バランスを見て、同時進行させる、というテクニック。

 

おれはなにをするにも拗れた感情のオマケが、余計なところで発動するため、そのせいで深読みしすぎたり自分で勝手に傷ついたりして、消耗していく。仕事とは関係ないはずの事で。

それのちょっとした対策法というか、自分が編み出した決まりごと、みたいなのがある。今年確立した。

 

それで、今年理解できて、いま少しずつトライしてるのが、先入観を捨てることだ。と、いうか先入観をそのまま少しほぐして当てる。みたいな。

 

上司というのは部下に指摘する。

それは会社のためでもあり、個人の、本人のためでもある。

そこでいちいち上司が、「嫌われたらどうしよう…」とは考えない。

考えないから潔く指摘ができる。さらりと潔く指摘されれば、言われたほうもあまり根にもたない。(受け手による)

 

これだ。と思った。

それに、嫌うなら嫌ってくれ、とも。

他者からの評価で自分の気持ちを左右させたくない。と思えるようになった。

だから、人からどう思われたか、で悩まなくなった。これはここ数ヶ月の話だけど。

 

そりゃ全員から嫌われるのは耐え難いけど、心の安定は自分の内側から築くべき、内側からなら築ける、ものなんだと認識した。そのほうがいいんだろうな、そうなれる日が自分にも来たらいいな、とはずっと思っていたけど。その意味の深いところまで理解した。

 

そして、立場や身分が違う相手であれ、まずは人として対等な存在なのだ。と思うように心がけるようになった。

 

これは、なかなか難しくて、職場以外ではだめだめなんやけども。

 

たとえ相手が目上の人であれ、自分より立派な身なりをしていたとしても、「へりくだりすぎないこと」が、自分にとっては大切なんだと思った。

 

人としてはフィフティーフィフティー。

それを念頭に置いて人と接すれば、いびつな人間関係からは解放されるのではないか、と。

 

いくら相手が自分より、ある部分の能力では突出していたとしても、それを見てペコペコしたりするのは、ある意味失礼にあたるような気がする。

なんか、相手に寄りかかりすぎというか。結局コミュ障って相手を頼ってるんだと思うんですよね。これは自分がいまもコミュ障だから言えることなんだけど、自分の存在に責任や自信を持たずに、「認められたい」という見えない欲求が、そこには隠れてて、そこに甘んじるのは、卑怯やなと。

 

こちらも一人の人間として、独立して、二本足で立っているのだから、

その自信というか、最低限の責任は、最初の自分の存在という尻拭いは、自分自身で行ってから、人の前に立つべきだとおもう。

 

とまあおれはこんなふうに、些細なことでさえ、いや、些細なことだからこそ、自分の中であらかじめルールを決めておかないと、不安で操縦不能になる。

 

だからとんでもなく扱いづらい。

扱いづらいし、大きな成長も出世も望めない体質の人間として生まれてしまったわけだけど、

仕方ない。

 

それがおれという人間だし、いまさら高望みしたってないもんはない。

 

逆算というか、終わりが来ることを考えながら物事に取り組むと、焦りがすこし薄れて、いまという時間を使おうという気になる。

 

なんとまあ皮肉なことか

 

来年の抱負はなんにしようかな